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下御霊神社

一番はじめに行ったのは下御霊神社、神宮丸太町駅から歩きました。


御所の南側です、結構分かりやすかったです。
着きました。




下御霊神社・門




門を入ると手水舎がありました。
ひっきりなしに、次々と水を汲みに来ています。
それぞれ、2リットル入りのペットボトルを何本も持ってきているようです。




下御霊神社・水





本殿は、静かです。
御霊神社独特の雰囲気です。






下御霊神社・本殿


社伝によれば、大同二年(八〇九)不運のうちに亡くなった伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊をなだめるために、承和六年(八三九)に創建されたといわれていいます。



祭神は、後に、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷天神を加えて八所御霊としているのだそうです。



 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきたのだそうです。


下御霊神社・さるすべり




境内には大きなさるすべりの木がありました。
大事にされているようです。


『和漢三才図会』によると、

藤原大夫人・伊予親王

伊予親王〔桓武天皇の子、平城天皇の弟〕
 平城天皇の大同二年(807)、藤原宗成の勧めにより謀反の意志があったが、発覚した。


親王及びその母藤原夫人(ぶにん)吉子は捕らえられ、川原寺に押し籠められ食を断った〔平城天皇は同腹の弟神野親王を太子としたので、伊予はこれを恨んだのである。


神野は後に嵯峨天皇と号する。〕。両人は薬を呑んで自殺した。宗成は流罪になり、大納言藤原雄友〔伊予親王の外舅〕は伊予国へ流された。


とあります。


御霊神社は無念の死を遂げた方々を丁寧に弔い、神様になって守っていただくために作られたものなのでしょうか。



京都御所の、南にある下御霊神社と北にある上御霊神社そして、東の吉田山にある吉田神社、以前から来たかったところです。


実際に自分の足で歩いて目で見てみると位置関係、大きさ、雰囲気…、いろいろなことが分かります。

面白いですね。

では、次回は京都御所です。





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